言の葉の天日干し

感想置き場

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

タイトルだけ知っていて読んだことのない本を読んでみよう企画パート1。

 

表紙やタイトルが醸し出す雰囲気とは裏腹に、想定していたよりもかなり読みやすかった。

決して爽快な展開ではないが、かといって極端に不愉快な描写があるわけでもない。それはこの作品を通して描かれる「人間性ヒューマニズム)」の思想が理解しやすいものだったからだろう。主題に対する主要人物の倫理観は、心あるものならば必ずや共感できるはずだろうと私は信じたい。

映画のブレードランナーを見たことは無いが、タイトルから察するに、設定を活かしてエンタメ方向に振り切ったアレンジがなされていると予想する。近いうちに見て確かめます。

昔のSF(ここで思い浮かべている作品は『2001年宇宙の旅』と『ニューロマンサー』など)は終わり方が哲学的で、思想に重きを置いて静かに物語の幕が下りる。ハードボイルドという概念およびその定義について私はあまり詳しくないが(チャンドラーの『ロング・グッドバイ』は確実にその概念に当てはまるとは思うが)、本作はその潮流の中にあっても決して違和感がないものだろうと思う。

 

タイトルはこれ以上ないほど素晴らしい。読了した人には、ぜひとも「人間は天然羊の夢を見るか?」と問いかけたくなること請け合いだ。

 

人間にとって、一番大切なことが描かれているお話だった。

エルデンリングの日記―蟻編―

祝福とは死に至った褪せ人が再び生を得る、終わりの始まりの地点を指す。

 


ゾンビの類は全く怖くない僕が日曜の昼間に恐怖で悲鳴を上げた、エルデンリングの蟻について書こうと思う。

初めて会ったのは、地下水道だった。
この世界は地獄であるからして、僕は地下に着いてまず天井を見た。洞窟で何度も複数体のインプに体で覚えさせられた習慣に間違いはなく、コントローラを握ったまま一息ついた。
天井に何匹もの蟻が張り付いている。
楕円形に膨らんだ胴体は血が焼けたような赤色で、遠目から見ても人間より少し大きい体躯をしている。
何も知らずに道を進もうとすれば、一斉に落ちてきた蟻に囲まれて祝福還りをする算段だ。地獄の敵はそういうことばかりする。僕は一匹ずつ魔法で倒し、ランタンを装備して道の奥に進んだ。照らした道の先に敵はいないから安心だ。
──その考えが甘かったから、次の瞬間に下記のような事例を引き起こしたことを今では強く反省している。
暗がりの曲がり角から突如飛び出してくる蟻、
あまりに怖すぎて短い悲鳴を上げる僕、
連続攻撃の後にどうみても酸性っぽい液体をぶち撒ける蟻、
よく見れば胴体に無数の毛が生えているのに気づいて全てが停止する僕、
どこぞの闇から乱入してきたもう一匹の蟻、
当然の帰結として強制祝福送還される僕。
甘かった、甘すぎた。蟻の蜜よりも甘い判断によってゲーム始まって以来の恐怖を味わった。なんで蟻に毛が生えているんですか?
曲がり角で安全確認しない蟻は免許返納しろと言いたいところだが、地獄の敵に地球の常識を説いても喋ろうとする前に死人に口なしを体感するだけだから、魔法で先制して大人しくさせるしかない。事故の発生した曲がり角の手前で、僕は自分に魔法をかけた。自身の周囲に数本の魔力の剣を浮かせ、敵が近づくとロックオンしていなくても自動で攻撃してくれる代物だ。
問題の角に差し掛かる。やはり蟻は出る。魔力の剣が蟻を襲う。その隙に魔法で蟻を倒す。振り向けば闇から乱入する蟻がいる。落ち着いて魔法で蟻を倒す。蟻のグラフィックは極力見ない。
一度殺されても次の生を以て突破する。これぞこのゲームの醍醐味だろう。未来が分かっていればどうということはない。
今回の経験で僕は事故に遭う前に保険に入ることの大切さを学び、敵がいそうな場所では常に魔法の剣を纏うようになった。おかげで以降のダンジョンでも不意打ちには滅法強くなった。無論祝福には幾度となく還っているが、それとこれとは話が別だ。

蟻の巣を超えて、さらに地下深くへと下りていく。今までボス扱いだった敵がフィールドに平然と雑魚として出るようになり、このゲームも後半まで来たのだろうと思う。
腐り落ちそうな木の根を歩いていくと、空に巨大な蜂が数匹待ち構えているエリアに着いた。ご丁寧に、蜂の下の地面にはアイテムが散りばめられている。
剣も纏っているし、蜂ならまあいいか。落ち着いて一匹ずつ対処しよう。そう思い、僕はエリアに足を踏み入れた。
アイテムに近づくなり蜂が飛んで来る。ロックオンして、しっかりと蜂を見て魔法で狙う。
その姿は数時間前に見たから忘れもしない、あの蟻だった。
蜂じゃなくて、羽の生えた蟻だった。
なんで蟻に毛を生やそうと思ったんですか?

さて、嫌なことから目を逸らすのは簡単だが、気になることを頭から消すのは困難だ。
蟻になぜ毛が生えているのか。
その謎を突きとめるために、僕はグーグル先生に質問した。これまでの敵配置等の経験からフロムによる手の込んだ嫌がらせではないかと思っていたが、どうやら違うらしく、地獄ではない地球上の蟻にも毛が生えているのだそうだ。
ついでに蟻が体内から噴霧してきた液体についても正体が大凡判明した。僕が酸性だと直感したのは、高校時代の知識が頭の片隅にあったからかもしれない。
蟻、液体、酸性。そう、蟻酸である。当時の僕は初見でこれを全て訓読みしたが、ギ酸という酸性の劇物だ。蟻酸マークの引越しです、とはよくいったものだ。
そして、蟻についてもう一つ衝撃的な事実が記されていた。

蟻は、蜂の仲間だった。

 

以上、散々蟻(ハチ目アリ上科アリ科)に関する苦しみを綴ったが、僕にこのゲームを止める選択肢はない。
祝福に戻されても次こそはと思い、死にゲーに特化した快適なシステムのせいかずっと遊んでしまう。アイテムを取るためにここは死んでから先に進もう、なんて他のゲームでは考えたことがない。リベンジに気持ちが逸りすぎてエレベーターが来ていないのに勢いよく飛び下りて転落死で大量のルーンを回収できなくなっても、また敵を倒せばいいやと爽やかな気持ちで続けてしまう。これまで難しそうだからとフロムゲーを避けていたのが非常に勿体なく感じる。
暗くて救いのない世界だが、キャラクタは性格が良かろうと悪かろうと不思議と魅力的で、テキストはストレスとなるような贅肉がほどよく削ぎ落とされていて不快じゃなく愉快だ。
とあるボスの祭では異様に熱狂したNPCたちの思考回路が完全に意味不明かつ理解不能だったけれど、なぜか置いてけぼりにはならずにあれよあれよという間に参加して大いに戦を楽しんだ。こんなに人の命が軽く扱われる祭を他に知らないけれど、それが嫌味のない高度なギャグとして機能しているのは素直に凄いと思った。この地獄は全体的にセンスが良い。
だから、僕は今日もエルデンリングの世界を歩む。今のところ不満な点は特に思い当たらないし、不安に思う点もただの一つだけだ。
この先もう蟻は出ませんよね?

エルデンリングの日記

TIPS「毒ホヤは足元が弱いぞ!」
何も知らない僕「毒ホヤって何???」
毒ホヤ「待って〜(異様に大きくて滅茶苦茶追いかけてくる)」
何かを知った僕「クトゥルフの子供みたいな眷属をホヤとは言わんのよ」


その世界は、一言で表すと地獄だった。

 

ELDEN RING

森にいる大きな熊を見て、「アオアシラみたいなものだろう」と挑めば無様にちぎり捨てられ、小さな犬くらいなら余裕かと思えば数匹に囲まれて乗っていた馬ごと頓死する。
蟹も海老もやっぱり異様な大きさで、少しでも攻撃すれば食物連鎖の在り方を身をもって知ることになるだろう。

新しいエリアに着いて、まず集めるのは地図の断片だ。旅の一番のお供はグーグルマップ、地図もなしに未開の地を歩くなんて現実世界でも考えられない。ましてここは地獄なのだから、その必要性は尚更だ。
凶暴な海老の練り歩く薄暗く濁った沼を馬で駆けながら、通りすがりざまに地図を拾う。この世界において止まることは概ね死を意味するから間違っても馬から降りて拾ったりはしない。
いつ物陰から骸骨の群れが襲いかかってくるか怯えながらも、エリアの端に到着した。
微かに光る鉱石があり、採掘をしている人もいる。村だろうか、否そんなことはない。炭坑夫は油断した褪せ人を死角から屠る偽NPCで、よく見れば辺りには毒の壺も常備されている。
僕はこんな世界で慎ましく石と暮らす炭坑夫たちに細心の注意と敬意を払い、気づかれる前に魔法で倒して鉱石を横取りしながら奥へと進んだ。
地域名によれば、ここは遺跡らしい。なるほど、どうりで明らかにランクの高い鉱石が取れるわけだ。それは勿論、このエリアがそれだけ死に近いことを表す。
ハシゴを登り、コウモリを先制魔法で倒してかなり高いところまで来ると、歌が聴こえた。被弾して擦り切れ荒んだ肌から体の内まで響く美しい歌声だった。回復薬も尽きてきた僕の目の先には、女性がいた。よかった、NPCかもしれない。
そんな筈はないし、地獄において信用できるものは己の経験のみであり、ボタンを押した僕の目には当然ロックオンされた敵がそこにいた。ハーピーですね。
ハーピーは毒も使ってくる厄介な敵だったが、なけなしの苔を食べて対処した。苔はもう無い。今思えば、炭坑夫のエリアに毒の壺が常備してあったのは「毒あるぞ」というヒントだったのかもしれない。
しゃがんでそろそろと進んで見えたのは、待ちに待った祝福だ。すぐそばには、いつものあの黄色い霧もある。それは、入るとボスが必ず待ち構えている三途の河のようなものだ。
僕は星見レベル38、長年の経験に裏打ちされた信頼と安定のソロゲーマーだから仲間は灰のクラゲ1匹。
明日の冒険はここから始まる。

ドラクエ11Sの感想

好きな絵師さんが描いたベロニカちゃんのイラストに一目惚れし、体験版をダウンロードしてオープニングムービーから王道RPGの波動を感知しワクワクしながら進め、気づけば製品版を購入し夏季休暇を9割BETし過ぎ去りし刻まで求めた人間による感情文です。

 

ストーリー進度は過ぎ去りし刻を求めた後で、禍々しい試練を受けている最中。多分もうすぐクリアするのかなあという感じです。クリアしたくない(面白すぎるから終わらせたくない)。

 

とある最期のイベントで呆然とし、その後の展開にいい話だなあと思いながらも心ここに在らずで話を進め魔王を倒した。

スタッフロールが流れる中「最高に面白いゲームだったけど、仲間が一人足りない絵面が悲しすぎる。あのイベント以降いまいち乗り切れなかったな」などと振り返り、冒険の書を上書きする。データに★が付いた。これから2周目が始まるのかなと思いつつゲームを続ければ、どうやらTOD2方式でクリア後に後日談がある流れ。海底洞窟崩壊後と同質の喪失感に襲われているけれど、このゲームは最高に面白かったので最後までしっかり見届けたい。たとえ、大団円に仲間が一人足りなくて、宴を他人事のように眺めて一層寂しくなるだけだとしても。
――なんて思っていたから、過ぎ去りし刻を求めて本当の2周目が始まり彼女の姿を半日ぶりに目にして、僕は居間でボロッボロに泣き崩れた。

この言葉は作品の印象を安っぽくしてしまう気がしてあまり好きな表現ではないが、他に適する表現が思いつかず、かつ事実であるので、申し訳なさを強く感じつつ何度でも言わせていただく。

泣いた。

このゲームで何回泣いたか分からない。

テオの優しさやロウの回想など目頭が熱くなった場面を挙げれば本当にキリがない。なかでも痺れたのは勇者の母ペルラのセリフ「やられたらやり返すのはかっこ悪いこと」。現代のゲームで、こんなかっこ良いテキストを堪能できるとは思っていなかった。
愚痴になってしまうが、ここ数年は新しいゲームをしてもテキストに憮然とすることばかりで王道を求めるなら昔に帰るしかないと思っていた。「ああ、このシリーズのターゲット層からは外れたんだろうな」と察して興味が完全に無くなり、シリーズだからという理由で購入を決めるゲームは年々減っていた。
僕はわりとゲーマーで、特にRPG好き(ゼノブレイド無印大好き,デルタルーン発売待機中)を自認しながらもドラクエを遊んだことがなくて、モンスターといえばスライムとバラモスとゾーマしか知らなくて、甲子園で演奏されるラスボスっぽいbgmイイよねと思っている程度のドラクエ未経験者だった。二週間ほど前までは「ドラクエって人気あるけど面白いのかな?」と思っていた。今なら断定できるが当然愚問である。
ドラクエ11は序盤から僕の予想を良い意味で裏切っていった。レッドオーブが無いと知ったとき、デクは友人を生贄に巨万の富を召喚しデルカダール下層民やかつての友を見下すような怪物になってしまったのだと思った。でも、違った。デクは友人のことを忘れたことがなく、それどころか脱獄を助力すべく自腹を切って兵士を買収していて、声を上げて友との再会を喜んだ。
一連のイベントがひと段落したとき、僕は長年離れていた故郷に帰ってきたかのように肩の力が抜けた。
――露悪的な展開を警戒して肩肘を張らなくてもいいのか?
そうである。
ドラゴンクエスト11は、どこまでも不安を裏切っていくゲームだった。
どんなに辛いことがあっても、期待を胸に前へ進めば進むほど明るい未来へと繋がっていった。

このゲームは、僕にとって勇者だったのかもしれない。